看病、入院、治療、見舞い、付き添い、そして看取り、通夜、葬儀。
前の記事で父を病院に連れて行っていることを書きました。
その後、病気が発覚した後のことをつらつらと書きます。
(2連続でリアル記事になってしまいました。こっちもいずれ消すかも)
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1月は、検査で過ぎていきました。
CTから血液検査、内視鏡での検査(のための検査入院)などなど。
最終的な結果が分かったのは月末でした。
結果は、肺がんで転移も見られるステージ4。つまり末期です。
2月は、ひとまず延命できるように放射線治療をするということで、半月ちょっとの入院生活。
子供の言うことには色々文句を言うけれど、医師の言うことは素直に聞いてくれる父だったので、入院自体に問題は起きなかったのだけれど、入院後が結構大変。
コロナ禍の現在、病室に面会に行くことは出来ず、必要な物があったら病棟の受付に渡すという手続きをしなければならず。
そしてそういう時に限って、アレが欲しいコレが欲しいと要求をしてくる。今は携帯電話があるので、時間もお構いなしでガンガン電話してくるわけです。
入院者も許可がないと外出できないので、対応していかないといけないのはしょうがないかな、と思いつつ、時には会社を早退したり、休んだりして看護師さんに状況を聞きに行ったりもしていました。
幸い、アルツハイマーの方は処方されていた薬のせいか、進行する様子は余り見られず、会話自体は普通に出来ていました。
そして3月。放射線治療が一通り終わり退院ということになったのだけど、退院後、食欲が一気に低下。一時期は高齢者用宅配弁当を(文句を言いつつ)食べていてくれたのだけど、それにも手をつけられず、さらに体調も悪化。
見ていられない状況になって病院に状況を確認しに行くと、がんの転移が内臓にも及んでいる傾向があったらしく、再入院へ。
そしてこの時、緩和ケア病棟についての説明を受けたのでした。
緩和ケアについては使うタイミングが色々広がっていたみたいだけど、この時説明を受けたのは「最期まで」という言葉を添えられていたため、覚悟を決めなければ、と感じました。
でも、このあともホントギリギリまで、覚悟を決めなきゃと思っていたので、実のところ覚悟なんて決まっていなかったのかも知れません。
再入院直後は空いていなかった緩和ケア病棟の病室も数日後には空きが出て、早々に病室を移動。通常の病室が4人部屋なのに対し、緩和ケア病棟は全て個室でトイレまでついており、その広さに本人も「大丈夫なんか?」と聞いてくるくらい。
でも、緩和ケア病棟の方だったら面会も、少々の世話も出来る状態だったから、大変ではあったけれど、この環境に移れて良かったと思っています。
緩和ケア病棟ではがんの治療はせず、痛みを取ることを中心に色々な薬の処方が行われます。
そのため、入院後数日で父は元気を取り戻し、面会に行っては少し会話をして、必要な物を持っていったりしていました。
もしかしたらこのまま元気になって一時退院するのでは?と思ったりもしたほど、普通に会話していたんです。
しかし、その元気も長くは続かず。
4月に入って程なく、病状が悪化…寝たきり状態になってしまい。
そのまま帰らぬ人となってしまいました。
最後の日は早朝に呼び出され、慌てて駆けつけたのですが、息がある間に到着することはかなわず、看取りに立ち会うことしか出来ませんでした。
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亡くなった後のことについては、父自身が生前色々と準備をしていたので、それに従って葬儀屋への連絡から色々な準備、お通夜、葬儀まであっという間に過ぎていきました。
コロナで亡くなったわけではなかったので、親族から近所の方まで出席することが出来たお葬儀となりました。
この後は、納骨まで指示通りに済ますことが出来れば、ひとまず私の子としての役割は落ち着きそうです。
とはいえ、この数ヶ月間は、本当に、できる限りのことをやってきたつもりだけれど、とても厳しい父だったので、きっと私が旅立った後に叱りに来るのでしょう。
でも兄が積極的に行動せず、妹が遠方から少し手伝うことしか出来なかった状況を考えたら、結構頑張ったんだよ。
普段文句ばっかり言っていた父だったけど、「ありがとう」という言葉を入院後に聞くことが出来たので、要望には応えられていたと信じていたいですね。